わたし、ヤンキーじゃなかったけど、ぐれていた。正しい親だったのに。
やたらと反抗した。反抗期はとても早く訪れ、長かった。万引きもたくさ
んした。わたしは捕まったことがない。友達が見つかって親にバレて大変
なことになったのは小学5年のとき。もうしませんって誓ったのに、中学
でまた始めちゃって、どんどんうまくなっちゃって。それはバレていない。
いま懺悔します。ほんとにごめんなさい。
タバコを初めて吸ったのは小学4年のとき。同じマンションの幼な馴染み
のおともだち3人が同じクラスになったから、毎日一緒に遊んでた。それ
で3人集まってわたしの家で、いつもお父さんがおいしそうに吸っている
あれってどんなものなんだろう?って、わたしが言い出して。ゆきちゃん
って子だけが「やめなよ」って言って、火を点けたタバコを渡しても受け
取らなかった。で、えっこちゃんって子と吸ってみたタバコはほんとにま
ずくて、それをおいしそうに吸う父を本気で尊敬してしまった。
中学生になって新しくできた友達は、やたらと大人びていた。彼女は両親
が離婚して、お母さんと二人暮らし。お母さんはデパートで働く、ちょっ
と派手目のかっこいい人だった。世の中くだらないって吐き捨てるように
いつも言っていた彼女は、ごくふつうにラークマイルドに火を点けて、お
いしそうに煙を吐く。足を組んで髪をかきあげ、最近読んだ本の話をする。
中学1年で、だよ。わたし、今思うと惚れてたね、その人に。で、彼女の
家に入り浸りだった。彼女のお母さんは仕事に飲みに忙しそうだし、うち
にはないファミコンや専用のテレビがあって、よい遊び場だった。途中、
彼女は磯子の方へ引っ越したけど、週末はバスを乗り継いで遊びに行った。
彼女の影響で本を読んだ。いろいろ読んだけど、やっぱり現代作家の小説
が好きだったようだ。衝撃だったのが村上龍の「トパーズ」とか。ヴァー
ジンの小娘にSMの話。
原稿用紙1枚ずつ交代でポルノ小説を書いたりして、遊んだ(笑)。楽し
かったなあ。夢を語り合ったり、大人を批判したり。わたしたちは中学生
にしていっちょまえにカフェバーでお酒を飲んだ。早く大人になりたかっ
た。(ちょっと尾崎豊ふう?)
わたしの父は、タバコもお酒も中学からだったらしい。罪悪感がなかった
せいなのか、父は娘に酒を飲ませたがった。ずいぶん小さいうちから度々
飲まされていた。酔っ払う幼い妹を記憶しているくらいだから。
うちはとにかく、お酒は飲んでよかった。母は怒るが。父とまじめに飲ん
だのは中学2年のときかな。父のバンドの合宿で河口湖の民宿の宴会場で。
それまでにタバコは見つかったことがあって、めちゃめちゃ怒られて、そ
れでも隠れて吸っていた。父は酒はいいけどタバコはだめだって言って、
わたしのグラスにビールを注いだ。そんな環境。
中学卒業と同時に一戸建てに引越して自分の部屋をもらった。ローン返済
のため母も仕事に復帰したから、自由だった。バイトも始めてバブルのお
かげで時給はどんどん上がって、お金はあった。友達大勢でよくうちで飲
んだ。
ライブハウスの対バンで現・銀河亭マスターのユージさんらと知り合った
後は、横浜・伊勢佐木町の老舗「JOHN JOHN」って飲み屋に出会ってしまっ
たこともあって、ずっと酒漬けだ、わたしの人生。ライブの打ち上げ、ユ
ージさんのいた日立軽音部の飲み会、バイト先の飲み会などなど。放任主
義?だったのかわたしが聞き入れなかったのか、門限はなかったし。
高校卒業後、わたしのフリーター人生が始まるのだが、一時期完全なプー
太郎を1、2ヶ月やったら見事に陥りました、連続飲酒。起き抜けから夜
寝るまで飲みっぱなし。食事もまともにしないで。死ぬかと思ったけど、
母のつくった雑炊で生き返った。で、プー太郎生活は良くないと実感し、
フリーターながらも仕事人間になり、連続飲酒からは脱却した。
昔はよく吐いたし、二日酔いだってしょっちゅうだった。飲み始めるとコ
ントロールがきかないから。完全なアル中体質。今も途中では止められな
いから、飲まないなら1滴も飲まない方がいい。1杯だけ、なんて、でき
ない。
これでも1年くらい、全く飲まなかった時期がある。それはヨガとアーユ
ルヴェーダにどっぷりと浸かった時期。
でも、自分で店をやろうと思って、お酒の勉強のためにバーで働き始めた
ら、本領発揮しちゃって。それまでは、ただ酔っ払うために飲んでいたも
のだ。でもお酒の世界は深い。しかもその店はシングルモルト(注:スコ
ッチウィスキーのなかでも、ブレンドをしないモルトウィスキーのことで
す)を売りたいマニアックな店。テイスティングの日々。マスターはモル
トを水で割ることは愚か、ロックでも許さない。リキュールグラスでスト
レート。そんな店なので、客は少なかったが。
それで、そこのマスター言うところの、カウンターのあっちがわの人間に、
わたしはなった。
初めてのバイトがウェイトレスだったからなのか、接客業が好きなのだ。
飲食業界にしか興味がない。初めてのバイト先、バブル期のイタリアンレ
ストランでは足掛け5年はお世話になった。途中、バンドの仕事を本職に
していたが、音楽をやるために、ずっとフリーターとして、でも本職の方
に申し訳ない気持ちもあったから人一倍、真面目に働いた。だってやっぱ
りバンドマンってろくなもんじゃないもの。世間のみなさまに申し訳ない
存在ですよ。って思うのは、両親がまっとうなサラリーマンだから?
一杯だてのコーヒーとパイやケーキを売る喫茶店のカウンターで働いたと
きに、急激に増えた夢のないフリーターの人たちを見てがんばるのをやめ
た。自分だけ一生懸命店のために、お客さんのために働いても、まわりは
仕事になんか興味ないから、いい仕事なんてできない。でも接客業が好き。
これはもう、自分でやるしかないんだなって23の時に思った。
で、飲食業から遠ざかって、ただ日銭を稼ぐためにガテン系の仕事へ。
必要以上にがんばらない普通のフリーターとして、働いたり旅したりした。
旅をしていて行き着いた沖縄に、住みつこうと思った。で、手に職ないわ
たしは、自分で店をやろうと思った。屋台のカクテルバー。数年計画で必
ず実現させるって息巻いていた。ただの飲み助だったわたしはお酒の勉強
のために、バー「シェルター」のドアをくぐったのだった。
バーテンダーってものすごく奥が深い仕事。お酒の知識も技術も必要で、
また、それだけではだめ。人間性を売る仕事でもある。「シェルター」の
マスターは、自分の哲学があって、それを切り売りするのがカウンターの
こっちの世界の仕事なんだと教えてくれた。で、お酒というものは、ただ
の橋渡しなんだ、と。お酒をおいしく飲んでいただくための技術は絶対に
必要なんだけど、お酒と一緒に自分を売る、おまえは売るべき自分を持っ
ているか、っていつも問われていた。
忙しい店ではないので、すぐにわたしは店をまかされて一人でやっていた
から、マスターといた延べ時間はそれほどなかったが、自分にとってもの
すごく濃密な時間をそこで過ごした。
結局、店をやるという意気込みも音楽活動の方が波に乗ってきて少し薄れ
た。沖縄に行ってしまったら音楽はできなくなるから。趣味でやるならど
こででもできるけど、師匠と呼べる人に鍛えられて歌うことがさらにおも
しろくなっていたし。
マスターからは完璧なバーテンダーとしてやって行くことを求められてい
たから、わたしは辞めた。でも、最初にマスターに言われた通り、バーカ
ウンターの向こうがわに一度行ってしまった人間は、もう戻れないのだ。
どこのバーに行っても、また、バーに限らず店が気になる。バーテンダー
の振る舞い、酒や料理の味、グラスの磨かれ具合、店の雰囲気、従業員の
動きなどなど。いやな客だ。
いま、わたしは絶対に最後までやらないと決めていたフロアレディの仕事
をしている。なぜやらないって決めてたかって?酒が好きすぎるから。真
剣に飲んで体を壊しかねない。でも銀座以外ではやらないと昔から決めて
いた。今が最後の切り札。
実際銀座での仕事はおもしろい。日常ではお目にかかれないような方と話
すことができる。彼らの哲学を学べる。
毎日、新しい出会いがあって、一緒に酒を飲み、語らう。お客さんとの間
に介在する不思議なツール、お酒。
人は何かに酔ってなければいられない生き物。酒に酔わなくても、必ず何
かに人は酔ってる。仕事に?遊びに?趣味に?わたしは、常に酔っていた
い。人生に。
昔はビール一辺倒だった。常に10歳くらい上の方々と飲んでいて、ビー
ルを注がれるので仕方なく飲めるようになった。ときどきはマイヤーズの
ラムコークを飲んでいた気もするが、「JOHN JOHN」のスタッフの男の子に
は「瑞加が来ると生樽の交換が面倒だし、あまりにビールばかり飲むから
見ていてこっちが気持ち悪くなる」などと言われていた。8時間とか平気
で飲んでいたしね。
「シェルター」のおかげで洋酒の幅は広がって、新宿にバーボンしか置い
てないスタンディングバーを見つけて喜んでみたり、好きなジンもラムも
わかって、お気に入りのリキュールもある。
「シェルター」のあとに知人の営むビストロで働いたのだが、そこでハマ
るまいと思っていたワインに開眼してしまった。赤いワイン。チーズや、
濃厚なお料理と合わせて。ワインはお金がかかるので、ハマりきってはい
なのだが。今後仕事にして習得しようかと思っている。
いま銀座では水割りだがウイスキーを飲む毎日。なのでプライベートでは
樽熟成させた酒を飲む気になれなくて、焼酎がいい。お湯割り。梅干なし。
そば焼酎がいいな。麦が日常的だけど。
さらに夏、鹿屋に赴いた際に、いも焼酎の洗礼を受けてしまった。うまい
んだもの。そちらはロックで。
日本酒だけが最後の砦。これは糖尿病の父から止められている。日本酒が
一番糖分が高いらしく、めったに飲まない。しかし安曇野で飲んだ「大雪
渓」という酒は、めちゃめちゃうまかった。
まだまだ知らない旨い酒はたくさんある。
とうとうワインクラブに転職してしまった。「人生、すごろく」っていう
のが座右の銘だからしょうがない。「しゃがーる」を最後のバイトにしよ
うと思っていたのに。
郡山で料亭を営むママのワイン好きが高じて、銀座にワインクラブ「10
$ANGEL(テンダラーエンジェル)」がオープンしたのが今年の5月
。小さいけど、テーブルや器、絵など福島の作家の作品にこだわって揃え
られている、和服の美人ママのセンスが感じられる素敵な店だ。オールド
ヴィンテージのワインがそこらのワインバーよりも安く飲めるという、こ
れまた変わったコンセプトのクラブである。安いといっても、オールドヴ
ィンテージに関しては最低でも10万近くはする。高いものは、40万の
ものもある。希少なものなので仕方がない。金払いが良いとしても、価値
のわからない人には売らない主義のママである。
ヴィンテージワインは、ママがヨーロッパに赴いたり、オークションで落
としたりして仕入れてくる貴重なものばかりで、先日、わたしもお客様の
特別な記念日に立ち合えたおかげで、40年近くも眠りつづけたワインを
口にすることができた。
ワイン好きのお客さんはみなさん舌が肥えていて、食事や、ほかの酒に関
してもうるさい。ママを始め、そういった方々と接することによって、ま
たわたしは新しいことを知って行く。
先日、お客さんの紹介で、大宮にある、希少な日本酒ばかりを取り揃える
古い割烹屋さんに行った。そこの日本酒も「10$ANGEL」のワイン
と同様、そこらの店では手に入らないものばかり。4人で行って、1合ず
つ、何種類もの日本酒を試した。日本酒は健康のために避けていたことも
あったが、どちらかというと好きではなかった。しかし、そこで知った酒
はうまかった。白ワインのようにフルーティーなもの、どっしりと米を感
じさせるもの、ワインと日本酒は似ていると思った。静かに坂本九や、昭
和30年代の歌謡曲が流れている。二階席もある、大きな店なのに、カウ
ンターにはわたしたち4人だけ。アテンドしてくれる和服の看板娘さゆり
さんと、さゆりさんを娘のようにかわいがっているママが、裏で決して音
を立てずに料理する、気配の感じられないマスターと、30年前から変わ
らぬスタイルでいまもひっそりと営業している割烹「あじろ」。わたしは
糖尿病の父を持つので日本酒は禁じられているが(笑)、その日初めて、
無限に広がる日本酒の世界を垣間見たのだった。
「10$」のママと「あじろ」のママの一致した意見は、「儲けのために
やっているのではなく、文化を残したいのだ」というもの。本物の価値を
わかる人を育てるのが、彼女たちの使命のようだ。すべてがコンビニ化す
る日本の中で、こだわりを持ってやって行くのは難しい。
そして二人は今日も看板に灯りを燈す。
「10$ANGEL」に入ってから、わたしは毎日歌っている。歌をうた
っている、と言ったら歌ってみろと言われて、「ルート66」というブル
ースをアカペラで歌った。それ以来、毎日ママにねだられて歌っている。
ネタに詰まって、自分の曲を歌ったら詩集が売れた。ママのプロデュース
でライブが決まった。郡山への遠征も予定している。「10$ANGEL
」でも定期的にライブをすることになって、バックにギタリストをお願い
した。
ママプロデュースのライブの打ち上げ用に、お客さんがわたしのバースデ
イヴィンテージのワインを、わざわざオークションで落として用意してく
れた。28年間、飲まれることを待ち続けているワイン。
店ではいつも酔いどれシンガーなみずかなのだが、ライブステージでは真
摯に歌うことと向き合いたい。
今世紀最初のボジョレーヌーボーは、解禁日、11月15日に飲むことが
できた。
「10$」のワインは、ほんとにおいしい。1本1本がママのこだわりだ
から、ヌーボーも、そこらで飲むものとは全然違う。
わたしの酔いどれ生活、今後も続いて行きそうだ。