日本、東京、銀座2

「いいか、あの鉄の扉をお客さまが押して入ってきたら、本番だ。この カウンターの内側はおまえのステージだ。」
 厳しい顔で、シェルターのマスターはわたしに言った。
 お客さまがなにを求めているのかを、察して演じる。それがバーテンダ ーの仕事なのだと、マスターは教えてくれた。

「いらっしゃいませ」
 と言ってドアに駆け寄るさまは、まるで猫のようだ。たったの今までウ ェイティングしながら、お客さんの噂話に花を咲かせていたと言うのに。 ママと、レギュラーで出勤しているお姉さん二人は、入り口に飛んで行っ て、にこやかに挨拶をしながら荷物や上着を預かる。肩にやんわりと手を 置いたりしながら、お客さまを座らせて、ちょっとエッチな投げかけも、 さらりと交わす。
 お客さまの人生の一部の場面に立ち合うために、その場を演じる。
 お客さまが何かを言ったとき、どんな台詞を返して欲しいのかを察して 、返す。うまく言えれば、その方はにっこり笑って先に進む。大企業の重 役クラスや、お年を召された方相手となると、その台詞まわしも難儀さを 増す。
 お姉さんたちは、それはそれは女優だった。自分の魅力を放って、その 世界にお客さまを引き込む。お客さまの求める世界と自分の世界を上手に リンクさせる。完璧に。わたしは、短い間だったが、その芸を懸命に盗ん だのであった。

 

そのあと移った店では、頼れるおねえさんもいない。わたしの女優とし ての本番は、毎日繰り広げられる。お客さまから学ぶことがたくさんあっ た。わたしの知らないことは山ほどあって、毎日が新しいこととの出会い の連続だった。
 誕生日を機に決心した。六月末で、わたしはフリーター生活を終える。 創作活動に専念するのだ。

 
 

衣替えをして、ママの着物は合わせから一衣に変わり、涼しげな夏帯に 変わる。帯や小物はまだ冬物をつけるという転換期、ママは季節を少し先 取りしいて、それはとても粋でおしゃれなことなのだと、やはり着物を毎 日着るチーママが教えてくれた。お客さんのスーツも薄手の生地に変わる 。きちんと六月から。
 牛皮の底は雨に濡れると一発でだめになってしまうから、雨用の草履は クローゼットに常備してあって、帰り道の微妙な天気にママもチーママも 敏感だ。ママが雨の日に出勤してきたあとは、蛇の目傘が非常階段に干さ れている。 
 「ママの着物を貸してあげるから、あなたも着ればいいのよ、もう最後 なんだから」
 着物のことを根掘り葉掘り聞いたら、ママが言った。七月、八月にだけ 着る、呂の着物の季節になったらまた着せてあげる、そしたら全部わかる じゃない。
 ママのお兄さんが酔って妹の自慢をする。
 「こいつはどういうわけか、目が利くんだ。」
 骨董品や絵を買い集めてきたママのエピソードなどを話してくれる。そ してママが言う。
 「ママの目は確かなんだから。おまえは絶対売れる。ママがいいって言 ったものは絶対いいの。」
 自分の母親以上に、心のどこかで母のように慕い、反発した。
 わたしは、この先もずっと、こんなふうな出会いを繰り返しながら生き ていくんだろうな、と確信している。
 そんなことを接客中に考えていたら、酔ったママがグラスの水滴を着物 に落として慌てている。ワインもたまにこぼしたりする。しみ抜きのこと でよく愚痴る。
 愛すべき人たちに囲まれて、幸せすぎて、ときどき怖くなる。そろそろ 出発だ。次はどんな人がわたしを待っているんだろう。新しい風が吹き始 めるのを、わたしは感じている。