人間というプラント、
 家庭というプランター

 

 一、

母親ゆずりで、わたしと妹は朝が弱い。わたしもひどいが、妹はさらに ひどい。しかし、朝7時には横浜の実家を出発して、わたしの住む祐天寺 には7時半に迎えに来ると言ったのは妹だ。早めに仙台に着いたら、近場 の秋保温泉あたりに行こうという話で、妹の、来春結婚する予定で既に一 緒に暮らしているセリカマニアの彼氏が、わたしの住むマンションの前で 、よくメンテナンスされたキレのいいエンジン音をさせたのは、8時過ぎ だった。
 「もう大人なんだからさー、高速道路使おうよ」
 妹が音楽を手掛けた、劇団VICのミュージカル公演が仙台であるとい うのを聞き、車で、しかも貧乏旅をしていたわたしの影響ですっかり同じ ようなことをしてきた妹が、
「下道で行く」
というので、わたしは叫んだ。便乗させてくれ、なんなの、ミュージカ ル手掛けたって。

 

いろいろあって、ここ数年、意図的に交流を絶っていたわたしたち姉妹 である。その間に、わたしはずいぶん長いこと一緒に住んでいた彼との部 屋を出て、東京に暮らし始め、妹は人生の伴侶を得てわたしの部屋を整理 し、実家で暮らし始めた。帰るたびに、彼氏のセリカを止めるために車庫 が二階建てになっていたり、リビングが改築されていたりなどの変化があ り、まともに住んでいたのが高校の三年間だけの実家とはいえ、わたしの 居場所などそこにはなく、帰っても客人扱いで、
「そんなのお姉ちゃんの望んだことじゃん」
という妹のいつかの台詞にも納得していた。
銀座での仕事を辞めた報告がてら、母の誕生日も兼ねて相馬家を訪問し た。
 久々に語らったのであった。妹の彼氏は仕事で帰宅が遅くなるというこ とで、妹はわたしとは顔を合わせたくないようだったが、わたしが仕事で 遅い母のかわりに食事の仕度をし、キルフェボンのタルトを持参したと聞 いて、母の誕生日でもあるし、私事の手を休めて降りてきた。家族4人だ けで食事をするのは実に5年振りくらいではなかろうか、わたしもひとつ 転機を迎え、すがすがしい気分だったので、妹と険悪だったのも忘れ、と ても楽しく食事をした。
 そこで妹が追われているという、ミュージカルの音楽監督としての作曲 作業のことを聞いたのであった。すぐに一緒に見に行くことに決めた。追 い込みの彼女はタルトをコーヒーで流し込んで、部屋に戻った。父は翌日 の人間ドッグに備え、語るだけ語ったあと、先に休んだ。母と深く二人だ けで話し込むのも、滅多にないことだった。最近のわたしはどんな人とで も、どう生きているかの話と、どう生きるかの話しかしない。それはわた しの趣味が生きることだからである。家族とも、そういう話しかしない、 すてきな夜だった。
 そして、妹と険悪だったのをまだ忘れたまま、仙台へと出発したのであ った。




 二、

わたしが四歳になる少しまえに、妹が生まれた。
 「瑞加はもうすぐお姉さんになるのだから、ちゃんとしなさい」
 母はそう言うが、姉になるということがどういうことなのか、いまいち ピンと来なかった。
 分娩のため入院した母のかわりに、同じ横浜市内に住む祖母がやってき て、しばらく同居した。祖母はまだ薄暗い朝早くに起きて仏壇の前でお経 をあげ、幼い頃から朝が苦手だったわたしは夢うつつにそれを聞くのだが 、気味が悪くて仕方がなかった。
 母のいない日常は退屈で、わたしは苛立った。
 「もうすぐ赤ちゃんが来るんだよ」
 父やおばあちゃんが退屈そうなわたしを高揚させようと語りかけ、わた しはそれに乗せられた振りをして、近所のおばちゃんやお友達にその高揚 感を伝えたりして遊ぶけれども、心の中では「いもうとなんていらないの に」と思っていた。でもそれを口にするのはいけないことだとわかってい た。新しい命が生まれることを、すべての大人たちが祝福しているのを、 わたしは理解していた。
 「瑞加とちがってこの子はきれいな桜色!かわいい赤ちゃん!」
 ガラス越しに「あれだよ」と指差された赤ちゃんは、なるほど、そこに いたほかのベッドの赤ちゃんよりも整った顔立ちで、本当にかわいかった 。「瑞加は色黒」だが、それは生まれながらであったらしい。「瑞加とち がって」、妹は生まれながらに白く、美しかった。

いくつかの候補の中から、最終決定を下したのはわたしだと記憶してい る。妹の名前。「茜」は、ほかのお友達の家の赤ちゃんよりもずっとかわ いい顔立ちをしていた。
 「瑞加と違って、あっちゃんは生まれたとき、とってもきれいな桜色だ ったんだよ」
 わたしはそうやって近所のおばちゃんに妹の自慢をした。
 襖一枚隔てた部屋で、父が仲間と徹夜で麻雀に講じていても、平気でぐ うぐう眠れるわたしと違い、妹はとても音に敏感で、眠らない子だったら しい。いつも眠っているわたしの子育てが楽だった分、母は育児疲れのた め苛立つことが多くなった。理不尽なことで怒られることもあった。その ストレスを、わたしは妹で発散していた。わたしが怒られない日はないし 、妹が泣かない日はなかった。
 しかし、喧嘩をしていないときは仲の良い姉妹だったと思う。友達と遊 ぶ約束がないときは、妹となにかしらして遊んだ。ゴム跳びなどの、お友 達とする遊びを教えてやって遊んだり、おばあちゃんの作ったお手玉や、 いとこのお姉さんがくれたチェーリングで遊ぶのは、いつも妹と。暑い日 は、バスタブにぬるい湯を張ってプールごっこをした。家族でどこかに行 っても、必ずわたしは妹を泣かせるが、姉妹で遊んでいた。




 三、

妹はわたしのすること全てをやりたがった。二人とも忙しい小学生だっ た。ピアノ、水泳、公文、書道。中学になって唯一違ったのは、わたしが ロックで彼女が演劇だったこと。
 当時わたしはなぜか、演劇をやる人種というものを疎ましく思っていた 上に、毎日の小競り合いにも苛立って、妹を軽く嫌悪していた。それは、 お互いの反抗期が重なっていただけなのだが、小学校の中学年から始まっ たわたしの反抗期は留まることを知らず、ロックに目覚めてからは体制へ の反抗となり、常識への反抗となり、そこに妹の苛立ちが加わって、憎悪 はスープのようにぐつぐつと煮込まれていった。
 母は家計のため、と理由をつけ、真剣に仕事をしていて、趣味にも忙し く、わたしたちには多分、母親がちょっとだけ足りなかった。
 そのスープは、わたしが二十歳のときにさりげなく家を出るまで強火で 煮込まれ、その後もとろ火にかけられていた。お互い大人といわれる歳に なっても、まだ。
 「このままでは憎悪でおかしくなってしまう」
 そう妹に宣告され、わたしは家族との距離を置いた。わたしが東京で暮 らし始めてこの二年、わたしたち姉妹はお互いの近況をほとんど知らない 。妹が、すべてを委ねられる人を見つけ、共に暮らし始めたことと、わた しがひとりになったことを除いては。

快調に東北道を飛ばす、セリカの助手席で幸せそうに笑う妹を見ながら 、愛について思う。愛憎は背中合わせであるということ。彼女の肌にいつ しか現れてしまったたくさんのニキビは、わたしが彼女を追い込んでしま ったせいなのだと思う。確信できる愛を手に入れた妹の肌は、以前よりず っときれいになっている。そんなに追い込まれてしまうほど、姉妹である ことの影響力は大きいということか。
 妹の、劇団VICとの出会いの話など聞きながら、また、昔話などしな がら、わたしたちは仙台に行き着いたのであった。




 四、

生の舞台を見ること、ましてミュージカルを見ることが初めてなわたし は、行きの車内で、劇団VICの代表である勝倉恵子さんがどれだけ魅力 的な人間であるかを妹から聞いていたから、相当わくわくしていた。すで にセットされている大道具もすべて、「代表のかっちゃんと、今回ヒロイ ン役をやる人とで、カンナがけをして作った」のだそうだ。涙ぐましいで はないか。
 パンフレットの一ページ目には、代表の挨拶。そこには彼女が今回の、 「ジキルとハイド」を原作としつつも、完全なオリジナルのミュージカル である、「Misty」の脚本を書いた理由が書かれていた。解離性同一 性障害(DID)=多重人格者である友人の、一つの体を3歳から30歳 までの幾つもの人格が奪い合う、壮絶な泥沼の戦いを垣間見たことの衝撃 。
 そして、音楽監督としての妹の挨拶。脚本を読んで感銘を受け、厳しい 条件の中、作品を作り上げたことの充実感について。
 舞台は、予想を上回るおもしろさであった。すべての俳優が、女性だっ た。一人二役のジキル/ハイドから、探偵のゴードン、執事のプール。ヒ ロイン・ローラ役の方は初めての女役なんだそうだ。
 あらすじはこうだ。
 知的で勤勉、街でも名高い医学博士であるジキルは、幼い頃から父の虐 待を受けて心の傷を負ったローラと街で出会い、使用人として雇う。いつ しか惹かれ合うが、ジキルの中に潜むもう一人の人格、残忍で乱暴なハイ ドが街で事件を起こしてしまう。私立探偵のゴードンとジキル博士は友人 同士であるが、ゴードンが捕まえようと追いかけているハイドがジキルで あることを知り、ゴードンとローラは驚愕する。しかし誰も信じない。人 格の統合をしきれず、ジキル/ハイドは自らの命を絶つが、それに立ち合 っていたローラは失踪。実はローラも多重人格者だった・・・
 すべての音を、妹がつくり、鳴らし、録音したそうだ。物語にどんどん 引き込まれ、最後、胸が詰まった。わたしが音楽をなんとか続けているよ うに、彼女たちは舞台をやっていた。ジキル/ハイド役を自ら務める代表 の勝倉さんの、ソウルを感じた。

種を蒔けば芽が出る。どんな環境であれ、その環境に合った育ち方をす る。人間も同じ。すべては必然である。屈折もトラウマも、抱えて生きて 行かなければならない。完全にリセットすることなどできない。
 初めて、妹を尊敬した。妹としてではなく、一人の人間として。そう思 える舞台を、劇団VICは見せてくれた。  
 わたしは素直にその感動を妹に伝え、もしかしたら妹はその瞬間、わた しというトラウマから解き放たれたかも知れない。
 舞台を見る前に三人で立ち寄った仙台・秋保温泉は、わたしが初めてバ ンドの仕事で地方滞在した温泉場だったことにも、なにかの因縁を感じる 。
 わたしはこの歳になって初めて、自分の家族を心から愛おしいと思える ようになったのであった。

最後に妹、相馬茜のプロフィールをパンフレットから抜粋。

 相馬 茜
 1977年3月20日生まれ。6歳より自分の意志でピアノを始める。
中学の演劇部にて舞台の世界の扉を開ける。高校の時に宝塚を観てミュー ジカルに目覚め、ミュージカル役者を目指し、歌・ダンスの勉強を始める 。高校卒業後、本格的に役者の勉強を始めるが、いつしか音楽を作ること に自分の道を見つけ独学で作曲の勉強をしている時にVICとの運命的な 出会い。以後、旗揚げから現在までVICの作曲家を務める。




劇団VIC