旅とお風呂と男と女

オールディーズやアメリカンポップスのバンドで、オールディーズクラブやナイトクラブ、納涼船やダンスパーティーや、お祭りや結婚式や、ベースキャンプや温泉場などで歌う仕事をしていた。20歳のときだ。
 普段は都内近郊のライブレストラン、ナイトクラブを点々と、また、ダンスパーティーやらベースキャンプ内のクラブやらでの演奏をする。同じハコで毎日演奏するよりも、ピンポイントの拾いの仕事の方が、単価が高いうえ、レパートリーが少なくても仕事になるというのが、わたしのような青二才にでも出来た所以である。
 夏になって来ると、納涼船での演奏の仕事が始まる。7月の頭から9月中旬まで。竹芝桟橋から夜の東京湾を2時間かけて周遊する、ビール飲み放題3500円の納涼船。休むことなく毎日毎日、船に乗った。
 藤沢の、バンドマスターの家に集合してから車で浜松町まで通う。毎日行って、機材を搬入し、PAからドラムセットまで全部組み立て、サウンドチェックをして、リハーサル。着替えて化粧して本番。船が港に着いたらステージを片付け、また車に機材を搬入。そして藤沢まで帰り、車に積 んだ機材をしまい、やっと解散。東京湾の花火大会は苦労せずに間近で見られてお得だが、たまに昼間もイベントの仕事が入ったりして、夏の間はなかなかに苛酷だった。
 それで、秋になると旅の仕事の季節。決まったハコでの仕事をしないバンドは、夏場以外はあまり仕事がないのだ。だから、地方へ行く。夏の労をねぎらうように。

それまで、特に風呂好きというわけでもなかった。 
 2ヶ月間、仙台の山間の温泉旅館に軟禁されたことがある。歓楽街もない温泉場である。大型の旅館が渓谷に沿って4、5軒あるあるだけの。旅館の中がすべて。客たちは日常から隔離され、酒を飲み、食事をし、温泉に浸かる。社員旅行などでやってきたおじさま連中が、コンパニオンを呼 んで、館内のクラブで歌ったり踊ったりする。そのクラブでのショウタイムが、わたしの仕事であった。
 わたしはまだ若く、退屈の有効な扱い方を知らなかったから、街に出たがった。午後近くまで眠るバンマスは起こさずに、仙台の街へ車を出してもらっては練習の時間に遅れ、なじられた。山の 中の何もない生活も、このバンドでの仕事も、出口のない人生を象徴しているようで辛かった。娯楽といえば、食べることと酒を飲むこと、その宿自慢の風呂に浸かること。
 そのクラブには、カレンというフィリピン人タレントがいて、彼女はわたしたちのステージの中で1、2曲歌った。それまでカラオケでショウをやっていたというカレンは、バンドで歌うということを楽しみ、わたしたちは親しくなった。 
 その数年前に旅館の従業員と結婚したカレンは、旅館のすぐ裏にあるアパートに住み、マニラでの挙式の写真や、3歳になる娘のリサちゃんの洗礼のときの写真を見せてくれる。日中の退屈を、リサちゃんとビデオを見たりカレンとおしゃべりすることで消費するようになり、わたしたちは毎 日ステージ前に、旅館のお風呂に三人で浸かった。

わたしのまだ青く固い体は、無邪気な健康さを漂わせ、色気とはほど遠かったように思う。
 わたしはカレンに見とれた。カレンは、常日頃から愛されている者だけの、艶やかな体をしていた。出産したとはいえ、当時まだ27、8歳。細いけれども触れたらきっと、吸いつきそうにしっとりとした肌、乳房は小さいが愛らしく、薄いヘア。わたしは女性の体の美しさに初めて気づき、大浴場で自分の体を含め、女性の体を見るのが好きになった。
 「リサちゃん、ほら、ベイビーをきれいに洗いましょうね」
 カレンは、脚の間を特別な石鹸で洗う。そこが特別愛する人に可愛がられることを、彼女はリサちゃんに教えていた。そんなところを「ベイビー」だなんて、そんなふうに可愛がることのできるカレンのセックス観をうらやましく思った。
 わたしはその頃は、まだなにもわかっていない子供だったけれど、そこを醜いと思うことだけはやめた。
 どんなに年老いて垂れ下がった乳房でも、かつては愛され、子をもうけ、育て上げたという歴史まで見え隠れする女の体。咲きほころび始めた花が今後男たちを誘うであろうという予感を感じさせる若い女の子の体は、女から見たって美しい。ちらちらと横目で観察しながら、自分と比べなが ら、いつまでも湯舟に浸かっている。

「すごいよね、女の体って情報だよね」
 わたしを抱いたあとでそう言った人がいる。どんな生き方をして、どんなセックスをしてきたのかが、体と振る舞いでわかるという意味で。それは男も同じだと思うけど。
 わたしは裸でいるのが好きだ。旅先での大浴場経験の多さのせいだと思う。バンドの仕事を辞めた何年か後に、バイクで旅をするのだが、その間もずっと大浴場での入浴生活であった。風呂釜が壊れたりすることもない、お風呂付きのきちんとした家庭で育ったわりには、わたしは他人に体をさらしすぎている。
 わたしは、いまの自分のからだが好きだ。マシンやダンベルでつくった柔らかい筋肉の曲線と、年齢に相応しい脂肪。腕に刻んだタトゥー。誇らしげに、鏡に映してみせたりする。「ベイビー」も好きだ。

東京の狭いアパートでも、風呂・トイレは別でなくては嫌だと思う。たいして懸命に探し回った部屋ではないけれども、窓つき・タイル貼りのお風呂のある部屋に、わたしは住んでいる。灯りは暗い電球、薄暗い中で入浴する。水道水を天然温泉にしてしまう不思議な粉を入れた湯舟に浸かる。
 お風呂に入ると、様々なことを思い出す。今まで入って来た風呂のことから、普段思い出したりはしない、今まで出会った人のこと。それは、たとえばカレンのことや、あの旅のバンドのこと。
 誰かの裸が見たくなったら、近所の銭湯に行く。それぞれの様々な過去を語る裸体。わたしは、その人たちの生活を想像したりしながら、彼女らの陥没した乳首や、張りすぎた腰まわりや、しなびた肌を見やる。
 いつまで、わたしは自分の体を愛せるだろうか。いつまで、愛する人はわたしを抱いてくれるだろうか。最近、年齢とともに柔らかくなってきた乳房を触れてみながら、乳がんの手術のためか乳房をなくした婦人から、わたしは目を逸らした。