氏神様

特定の宗教を信仰しているわけではないが、神様というものをわたしは とても大切にしている。
 たとえば。
 毎朝、自転車(もみじ丸)で昼のバイト先へ行くときには、神社を突っ 切る。わたしの近所の氏神様。裏鳥居から入り、土の地面に落ちないよう 気をつけながら、石畳に沿って表の鳥居をくぐる。鳥居をくぐる際に、わ たしは必ず
 「おはようございます」
と呟いて、心の中で神様になにかしら語りかける。そのとき抱えている問 題や、願望のこと、心地よい季節の匂いを感じたらその感謝の言葉のとき もある。出発してから鳥居をくぐるまでの間に、今日は神様になにを報告 するか考えながら自転車(もみじ丸)を漕ぐ。
 といってもわたしの朝は戦争である。ぎりぎりまで寝て、ひどいときは 寝起き10分でちゃんと化粧も終えて飛び出すときがある。おじいちゃん やおばあちゃんの漕ぐ自転車や、お散歩中の幼稚園児の集団をいらだち紛 れに追い越す毎日。そしてその感情をいちいち反省し、相談事についての 考えをめぐらす。毎朝の大切な儀式である。

ある日、わたしは急いでいたが、神社の鳥居寸前でのろのろと自転車を 走らせるおじいさんに追いついてしまい、一瞬舌打ちしたい気分になった がすぐに反省。そのおじいさんに続いて神社に入ると、おじいさんは賽銭 箱の前を通りすぎる際に軽くだけどちゃんと頭を下げた。わたしは、とて もあたたかな気分になった。わたしもいつものように挨拶をして通り過ぎ る。
 日本人は無宗教だと言うが、そうだろうか。神や宗教など縁遠そうな、 ラッパーやらR&B系の歌をうたいたがる若い子たちを抱える、小さな音 楽事務所を営む苦労人ぽい社長さんの散らかった事務所には、神棚が奉っ てあった。わたしがコンビニの弁当の食べ散らかしやタバコの吸殻のささ ったコーヒーの空き缶を机の端に寄せながら、
「神棚はきちんとしているんですね」
と苦笑すると、
「そうそ、これ奉ってからね、小さいけど仕事がまわってくるようになっ てね」
とおっしゃる。同席の相方のギタリストまなびーは鼻白んでいたが、わた しは理解できた。

そこにできた店は数ヶ月ですぐに潰れてしまう。最初は280円のラー メンを出すラーメン屋だった。その次に定食屋になった。そしてすぐに最 初とは違うラーメン屋になった。駅から離れてはいるが駒沢通り沿いで、 周辺にも同じ立地条件の飲食店がいくつかある。しかしそこだけはすぐに 潰れてしまう。道路を挟んだ目の前に神社の鳥居があり、その先に神社が あるのでちょうど店と向かい合わせになっている。なにか関係があるよう な気がするが、そういったわたしの意見は、ばかばかしいと大抵却下され る。

どこでも、神社のまわりには木々が繁り、わたしには心地のよい空間だ 。そこが大都会の片隅だということを忘れさせてくれる。いつだったか深 夜、赤坂でお客さんと別れたあと覗いてみた日枝神社など、驚くほど厳か な気分にさせられた。
 神が奉られている場所というものは、ただ闇雲に選ばれたものではない と思う。そうすべき磁場なのだ、きっと。地面から足の裏を伝って、わた しはそういう気をびりびりと感じる。
 もちろんそんなことを感じないで生きて行くことはできる。むしろその 方が現実的だといわれている。でも、そのチカラを味方につけることがで きたら・・・あのラーメン屋の立地でも繁盛店に導くことは可能な気がす るのだが。