ヲトモダチ

友達という言葉はなんだか偽善的な響きが気分悪くて、友達はいないと思春期には 思っていた。昨日まで仲良く話していた子がいきなり態度を変える。それは、だれに でも一度は経験のある、クラス内でのいじめ。あの瞬間、それまでの楽しかった時間 はなんだったのかと、わたしを憎むことで結束したクラスメイトを前に考えさせられ たのだ。

確かにそれまで、いつだっていじめられる個人の決定権はわたしにあった。しかし わたしが命令するわけじゃない。
 「あの子のこういうところ、好きじゃない」
 とうっかり口にすれば、みんなの標的はその子になってしまう。わたしのやってい ることじゃないと、見て見ぬ振りをした。それほど、思春期の身体成長のためか大量 放出されるアドレナリンを消化するのに、誰かを憎むということは彼らにとってなく てはならない感情で、それらを食い止める術をわたしは持たなかった。とても不びん に思い、いずれわたしは、かわいそうにわたしの一言でみんなの標的になってしまっ たその子にやさしく声を掛ける。それが何度か繰り返されると、彼らの標的はわたし に切り替わった。「あんたがああ言ったからこうしているのに」と。
 楽しかった。授業をさぼったり先生をからかったり、タバコを吸ったりおやつをく すねたり。期限つきのお遊びだった。彼らは友達だと確かにあの時は思っていたのに。 「おはよう」と声を掛けて無視されたその瞬間に、人はあてにならないものだと悟っ た。
 しばらくは悩みに悩んだわたしだが、そのうち自殺の際に発見されるはずだった彼 らへの恨みつらみを書いた遺書を破り捨て、彼らの頭では行けない高校を選び進学す るために、遅れを取った分人並みに勉学に励んだ。煙草は止められなかったし、お小 遣いが足りなくてサガンの短編を万引きしたりはしていたけれど。

それ以来、グループには属さず孤独であるスタンスをとり続けた。知り合いはたく さんいるけど友達はいない、と思っていた。寂しくはない。だって人はあてにならな いのだから。しかしそもそもわたしは友達になにを求めたかったと言うのだろう?昨 日見たテレビの話で暇を潰すこと?
 高校ではみんながわたしを「みずかさん」とさんづけで呼んだ。当時長くおつき合 いした彼氏でさえ。
 高校のクラスメイトとは至ってドライな、クールな関係を上手に築いた。最初から なにも求めないから、楽しい部分だけ共有できる。さんづけで呼ばれるのも悪くはな かった。わたしは誰とも群れず、バイトばかりして授業は単位ギリギリしか出ず、出 ても寝てるか本や漫画を読んでるか、なのに赤点は取らず、軽音部で男の子のバンド でシャウトするかっこいい女の人、というおいしい役柄を手に入れた。

現在に至るまで、自分の役は結構気に入っていて、その役に群がってくれる人間関 係の中で人づきあいをしていると楽しいことばかりだ。悪い人も登場しない。ちょっ とは騙されたり頭に来たりした方が人生のスパイスとなるのではなかろうか。
 わたしは先日、達観したあるお客さまに言われた。
 「君は根本的に人を信用していないんだよ。」
 なるほど、わかってらっしゃる。信じていないから騙されることもない。まあそれっ て、酔っ払いに「きみは可愛い」とか「美しい」とか言われることに対しての、そう いうレベルの話だけど。
 そう言われて深読みしてみると、確かにわたしは家族でさえ信用していない。無自 覚な気分屋のB型家族の中で育ったおかげで。激しい主役争いをしていたということ なのだが。彼女たちの無邪気な不機嫌に振り回されて、反発しては深くいじけて大き くなった。学校みたいに「みずかさん」とさんづけで呼んで敬ったりしてくれる人の いない家庭の中はわたしにはつらい場所だったが、わたしは家庭内とあのいじめによっ て諦観ということを学んだのだ。

いまはどんな人でも愛せる。諦観の上に成り立つ友情、愛情。しかし出会いの多さ のわりには、恋焦がれる(=執着する)相手の出現はわたしの人生には稀少だ。諦観 しちゃってるから。
 わたしの人生の中で、様々な人がセリフつきで登場する。わたしも様々な人の人生 にセリフつきで登場する。アドリブで一緒にドラマを作っている感じだ。時には涙も あるが、それは楽しいドラマ。キャストのみなさんのおかげで。ありがとう。

こんな気持ちで人づきあいをしていても、わたしは人を信用していない臆病者だと 言われるのだ。かといって否定もしない自分を認める今日この頃である。