セックス考

わたしは、恋人が欲しくない。今のところ。自堕落な日常、約束のない週末。
 淋しくないのかとよく訊かれる。淋しくないのはなぜだろう?みんなは淋しいからという理由で、恋人を持つのか?
 恋とはするものではなく、落ちるものだと思うのだ。熱病みたいな恋。それは安息からはほど遠く、もしも性的欲望が芽生えるとしたら、わたしはそこでしか見つけられない。
 今のところ、わたしは落とし穴には落ちずに、上手に生きている。誰にも欲情せずに。

セックスは情熱の表現だ。もどかしい愛情を表現するための。だから、相手を知りたいと思えば思うほど、熱く燃える。それが、相手を知り、信頼が深まってくると、その表現手段は必要ではなくなってくる。その手段は、言葉を覚え始める。だから、大抵の男性は妻とセックスしなくなる。それは、愛情が冷めたのではなく、表現の手段が変わったということだ。わたしは、それを理解するが、当の妻の気持ちになれば、とても寂しいことだとは思う。
 でも、愛する人のDNAを繋げたなら、すなわち子供を産んだなら、もうセックスなど良いではないかと思う。また、子供を欲しがらない自分は、セックスなどする資格はない、とも。

わたしは、人間と動物の間を行ったり来たりする。好きになった人の、なにが好きで、どこをどう繋げたいのかと考察して、その人の魅力を身籠りたいと自覚して、初めてセックスする理由を見つける。相手にすでに子供がいて、繋げられている人の場合に、わたしの食指が滅多に動かないのは、動物的本能に近い。ごく稀に、既婚者にときめくことがあるが、それはまったく継続性のないもので、また、継続性を求めたときにナニかが破綻することを理解している厭世的な相手としか、わたしは交わることができない。 

セックスは肉体の交わりではなく、霊の交わりだとも思っている。霊と交わるのに、必ずしも肉体は必要ではない。いつだって、わたしは目の前にいる人と、目に見えないセックスをおこなっている。わたしにとって、会話というものが、それだ。会話するということは、セックスしているということと同義語だ。逆に、会話が成り立たない相手の霊(心)と交わるために、体を使うこともある。でもそれは、同じ言語中枢を持っていれば、滅多に必要となる作業ではないから、わたしは不本意にも、相当クリーンな身である。

「あなたはなんでもセックスに結びつけて考えますね」
 と、若い男の子によく軽蔑されている。
 「だってセックスがすべてだよ」
 などと言い放つから、相当の遊び人だと思われているが、それでも肉体的性欲が湧くことがあまりないのは、理屈をこね回しているからであって、これが究極のマスターベーションなのだ。体が感じるのは、脳みそのおかげだってことを、わたしは知っている。わたしは体に触れられるまどろっこしさよりも、脳みそそのものを愛撫してくれる人を求めつづけているのだ。

というわけで、独身。31歳。